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【タロとジロとは何者?】南極観測を支えた樺太犬の実話

御厨 美冬 御厨 美冬 • 更新: • 公開: • 読了約 20 分
目次

タロとジロは、1956年に始まった日本の南極地域観測に同行した樺太犬(カラフト犬)の兄弟犬である。単なる南極のマスコットではなく、当時の観測活動に欠かせない犬ぞり隊の一員だった。

国立極地研究所の展示資料によると、南極観測に犬ぞりを導入することが決まり、北海道にいた約1,000頭の樺太犬から40〜50頭が選抜され、稚内で訓練を受けた。その中から選ばれた22頭が、1956年11月、第1次南極観測隊とともに南極へ渡った。

犬たちの仕事は、観測隊員や物資を犬ぞりで運ぶことだった。雪上車が十分に普及していなかった当時、広大な雪原を移動するための重要な輸送手段だったのである。

第1次越冬隊は11人と19頭の犬で昭和基地における越冬生活を送った。タロとジロもこの隊に所属し、過酷な環境で犬ぞりを引く任務に携わった。

このとき犬たちの世話を担当していた人物が、後にタロとジロとの再会を果たすことになる北村泰一氏だ。

北村氏は第1次越冬隊の犬係として犬たちと生活し、第3次南極観測隊にも参加した。タロとジロの生存を自ら確認した人物として、南極観測史に名前を残している。

重要なのは、犬たちが人間に連れられて南極を訪れた愛玩動物ではなかったという点だ。観測隊の活動を支える働き手であり、隊員たちと日々の任務をともにした仲間だった。

【なぜ15頭を南極に残した?】第2次南極観測隊の越冬断念と宗谷の限界

タロとジロ

タロとジロの実話を理解するうえで、避けて通れないのが1958年2月の第2次越冬断念である。

なぜ観測隊員は犬たちを連れて帰れなかったのか。単純に犬を置いていくことを選んだのではない。南極の海氷、悪天候、船の損傷、燃料や飲料水の不足が重なり、人間の安全を確保することさえ難しくなっていた。

1957年12月31日、宗谷が氷に閉じ込められる

第2次南極観測隊を乗せた南極観測船「宗谷」は、1957年10月21日に日本を出発した。

しかし、昭和基地に向かう途中の12月31日、宗谷は厚い海氷に閉じ込められ、身動きが取れなくなる。

国立極地研究所の公開資料によれば、その後およそ40日間、宗谷は海氷とともに漂流することになった。

アメリカの砕氷艦「バートン・アイランド号」の支援も受け、ようやく第1次越冬隊員の収容に向けた作業が進んだ。

1958年2月には、航空機を使って第1次越冬隊員11人を宗谷へ収容。第2次隊による越冬を何とか実現させようとする試みも続けられた。

しかし、気象条件は回復しなかった。

第2次越冬を断念した決定的な理由

第2次越冬を成立させるため、3人の隊員が昭和基地へ向かったものの、天候はさらに悪化した。

国立極地研究所の資料には、残りの航空輸送があと1便しか実施できない状況になり、隊員たちが少人数でも越冬を続けたいと訴えた経緯が記されている。

それでも、飲料水と燃料の不足、宗谷の損傷、天候の悪化などが重なり、安全な観測活動の継続は困難と判断された。

そして、1958年2月24日、第2次越冬の断念が決定する。

犬たちは翌年の観測活動でも使用する予定だったため、昭和基地に係留されていた。しかし、その翌年の隊が越冬できないと決まったことで、15頭は取り残されることになった。

犬たちを救出するための余力もなく、隊員たちは苦渋の決断を迫られたのである。

年表で見るタロとジロの実話と関係者

年月日 関係する人物・組織 出来事と史実
1956年11月 第1次南極観測隊・宗谷 樺太犬22頭とともに南極へ出発
1957年2月 第1次越冬隊 11人と19頭の犬で越冬生活を開始
1957年10月21日 第2次南極観測隊 宗谷で日本を出発
1957年12月31日 宗谷 厚い海氷に閉じ込められる
1958年2月24日 第2次南極観測隊 越冬断念。15頭の樺太犬が昭和基地に残る
1958年末 第3次南極観測隊 改装された宗谷で再び南極へ向かう
1959年1月14日 北村泰一・第3次隊 タロとジロの生存を確認
1960年7月 ジロ 南極で病死
1961年5月 タロ 第4次越冬隊とともに日本へ帰国
1968年2月 第9次南極観測隊 昭和基地付近で樺太犬の遺体を発見
1970年8月11日 タロ 北海道大学植物園で14歳7か月の生涯を終える

この年表からわかるのは、タロとジロの生存確認が単独の偶然の出来事ではなく、日本の南極観測体制そのものが再構築される過程で起きたということだ。

なお、宗谷の第2次観測における苦い経験を受け、船は大規模な改装を受けた。大型ヘリコプターを2機搭載できるようになり、第3次観測では航空輸送を本格的に活用できる体制が整えられた。

日本財団が運営する船の科学館の資料でも、この改装と航空輸送の重要性が紹介されている。

【1959年1月14日の発見記録】15頭の樺太犬はどうなった?

、第3次南極観測隊が昭和基地周辺をヘリコプターで確認した際、隊員たちは雪原に犬の姿を発見した。

それがタロとジロだった。

北村泰一が確認した2頭の生存

1959年1月14日、宗谷から飛び立ったヘリコプターが昭和基地周辺を飛行した。

そこで確認された2頭の犬を、第1次越冬隊で犬係を務めていた北村泰一氏がタロとジロだと確認した。

前年に自分たちの手で残してきた犬が、約1年後も生きていた。

この出来事は日本国内だけでなく、海外にも大きな驚きをもって伝えられた。

1月14日は、現在では「タロとジロの日」、また「愛と希望と勇気の日」とも呼ばれている。

15頭の運命はどう分かれたのか

国立極地研究所の資料と北村氏の証言をもとに整理すると、1959年の再訪時に確認された15頭の状況は次のとおりだ。

15頭の分類 頭数 確認された状況
生存 2頭 タロとジロ。昭和基地周辺で発見
死亡 7頭 鎖につながれたまま死亡。遺体を確認
行方不明 6頭 首輪から離れて姿を消し、所在不明
合計 15頭 1959年の現地確認時点の内訳

この数字が示すのは、15頭すべてが死亡したわけでも、タロとジロ以外の犬がすべてその場で亡くなったわけでもないという事実だ。

7頭は鎖につながれた状態で死亡していた。一方、6頭は係留場所から姿を消していた。

その6頭については、基地周辺で生きていた可能性も含めて考えられていたが、当時は所在を確認できなかった。

ここで注目したいのが、後年に明らかになったリキの存在である。

1968年に見つかった第3の犬「リキ」

タロとジロの生存確認から約9年後の1968年2月、昭和基地の近くで1頭の樺太犬の遺体が発見された。

この発見は、長い間ほとんど知られていなかった。

2020年に刊行された嘉悦洋氏の著書『その犬の名を誰も知らない』では、北村泰一氏の証言と南極観測関係の資料を検証し、この犬がリキだったとする結論が示されている。

リキは第1次越冬隊で犬ぞりの先導犬として活躍した経験豊富な犬だった。

この検証によって、タロとジロの生存を考えるうえで、もう1頭の犬の存在が重要な論点として浮かび上がった。

つまり、1959年1月14日に確認された生存犬はタロとジロの2頭だが、そこに至るまでの期間、実際にはリキも関わっていた可能性があるということだ。

【タロとジロはなぜ生き延びた?】食料の謎とリキの存在

タロとジロの実話で、現在も多くの人が疑問に感じるのが「何を食べて約1年間も生き延びたのか」という問題だ。

南極の冬は極めて厳しい。食料の確保が難しく、海氷や吹雪など、犬にとって危険な環境が広がっている。

それでも2頭は生存した。

基地に残された犬用の餌は食べていなかった

国立極地研究所の展示資料によると、昭和基地には犬の餌として身欠きニシンが残されていた。

ところが、第3次隊が再訪した際、その餌には手をつけた形跡がなかった。

つまり、基地に残された食料をそのまま食べ続けて生き延びたという説明では、実際の状況を説明できない。

野外で何らかの食料を得ていたと考えられるが、約1年間の食生活を記録した資料は残っていない。

ペンギンや海洋生物、アザラシの周辺にある食料など、さまざまな可能性が語られているものの、どの食料をどの程度利用していたかを確定できる記録はない。

生存を支えた可能性があるリキのリーダーシップ

ここで重要になるのが、前述したリキである。

リキは犬ぞり隊の先導犬として働いており、周辺の地形や移動経路に詳しい犬だった。

2020年の『その犬の名を誰も知らない』では、北村氏と嘉悦氏による資料の再検証を通じ、リキがタロとジロと行動をともにしていた可能性が示されている。

その推論では、リキが若い2頭を連れて食料のある場所へ移動し、生き延びるための行動を支えたのではないかと考えられている。

ただし、ここは史実と推論を分ける必要がある。

1968年に発見された遺体については、発見時の詳細な検死記録や写真が十分に残されていなかったとされる。リキの個体特定も、当時の目撃証言や犬の特徴、観測資料を積み重ねた後年の検証によるものだ。

リキがタロとジロを守っていたという説明も、当時の行動を直接撮影した記録によるものではない。

それでも、犬ぞり隊での役割や当時の状況を考えれば、タロとジロだけの力で生き延びたとする単純な物語に、新たな視点を与える発見だった。

タロとジロの生存理由について、わかっていること

検証ポイント 確認できる事実 現在の評価
鎖からの脱出 タロとジロは自由に行動できる状態で発見された 生存に必要な条件の一つ
基地の餌 身欠きニシンには手がつけられていなかった 基地の餌だけでは説明できない
野外での食料 自力で何らかの食料を得たと考えられる 詳細は不明
リキの存在 1968年に基地付近で犬の遺体を発見 2020年の検証でリキと特定する説が示された
リキの支援 先導犬としての経験があった 2頭を導いた可能性はあるが、直接の証拠はない

タロとジロの生存を、樺太犬の寒さへの強さだけで説明するのは不十分だ。

犬種としての適応力、鎖から抜け出して行動できたこと、食料を確保できた可能性、そしてリキという経験豊富な犬の存在。複数の条件が重なった可能性がある。

この出来事の本当の驚きは、生存そのものだけではなく、その生存を支えた環境や行動の多くが、今も完全には解明されていない点にある。

【タロとジロのその後】ジロの死とタロの帰国、15頭の記憶

1959年1月14日に生存が確認されたタロとジロは、その後すぐに日本へ帰ったわけではない。

2頭は第3次南極観測隊とともに昭和基地で生活し、後続の第4次越冬隊にも引き継がれた。

ジロは1960年7月、南極で病死

ジロは第4次越冬期間中の1960年7月、南極で病死した。

享年は4歳6か月。遺骸は日本に持ち帰られた。

1959年にタロとともに生存が確認されたジロだったが、日本の土を踏むことはかなわなかった。

現在、ジロの剥製は国立科学博物館の常設展示に登録されている。展示場所は日本館2階北翼の「日本人と自然」だ。

タロは1961年に帰国し、北海道で余生を過ごす

一方のタロは、1961年5月に第4次越冬隊とともに日本へ帰国した。

帰国後は北海道大学植物園で生活した。

タロは1970年8月11日、14歳7か月で生涯を終えた。

現在も北海道大学植物園の博物館本館では、南極観測で活躍した樺太犬タロの剥製を見ることができる。

タロとジロは、発見後も同じ場所で暮らし続けたわけではない。ジロは南極で命を落とし、タロは日本で余生を過ごした。この違いも、2頭のその後を理解するうえで押さえておきたい事実だ。

15頭の樺太犬を記憶するブロンズ像

南極に残された犬たちを忘れないため、1959年9月には15頭のカラフト犬を表現したブロンズ像が制作され、東京タワーの入り口に設置された。

その後、2013年に国立極地研究所へ移設された。

現在は南極・北極科学館の敷地内に設置されている。

興味深いのは、この像が特定の2頭だけを称えるものではないことだ。15頭全体の記憶を後世に伝えるためのモニュメントであり、タロとジロだけでなく、亡くなった犬や行方不明となった犬たちも含めて記憶する意味を持つ。

また、南極観測における犬ぞりの使用は第5次隊まで続いた。第3次から第5次までに同行した犬たちは第6次隊によって帰国し、第7次隊が犬を南極に連れて行った最後の隊となった。

その後、南極観測の輸送手段は雪上車などへ移り、犬ぞりの時代は終わった。

【映画『南極物語』と実話の違い】感動作が描いたもの、描かなかったもの

に公開された映画『南極物語』は、タロとジロの実話を題材にした日本映画である。

監督は蔵原惟繕。高倉健が潮田暁役、渡瀬恒彦が越智健二郎役を演じた。

南極の過酷な自然環境に取り残された犬たちと、犬を置いて帰国せざるを得なかった人々の葛藤を描き、日本映画を代表する作品の一つとして知られるようになった。

しかし、映画は観測記録をそのまま映像化したドキュメンタリーではない。

実際の出来事を基礎に、人物の関係性や犬たちの行動、遭難や生存の過程をドラマとして再構成している。

映画と史実を比較すると何が違う?

比較項目 実際の出来事 映画『南極物語』
公開・発生時期 1958〜1959年の南極観測 1983年公開
犬の数 15頭が昭和基地に残された 15頭の犬たちを題材に描く
犬の生存 タロとジロの生存を確認 犬たちのサバイバルをドラマ化
ほかの犬の運命 7頭死亡、6頭行方不明 犬ごとの最期を演出的に描写
リキ 後年の検証で第3の犬だったとする説 シャチから仲間を守る犬として描かれる
人間の物語 北村泰一ら実在の観測隊員が関与 潮田・越智らの人物を中心に再構成

映画のリキと実際のリキは同じ運命だったのか

特に大きな違いがあるのが、リキの描かれ方だ。

映画では、リキは仲間を守るリーダー犬として描かれ、シャチに襲われる場面など、劇的な展開を通じて印象的な役割を果たす。

一方、実際のリキについては、1968年に昭和基地付近で発見された犬の遺体を、後年の検証によってリキと特定する説が示された。

実際にシャチに襲われて命を落としたという記録は確認されていない。

また、タロとジロを守っていたというリキの行動も、映画のように一連の出来事として確認されたわけではない。

映画は、犬たちがどのような状況で命をつないだのかを観客に伝えるため、自然との闘いや仲間との関係を映像表現として具体化している。

それに対し、実際の観測記録には、死亡した犬の遺体確認や行方不明犬の捜索、食料の問題など、より厳しい現実が残されている。

映画を見た後に知っておきたい本当の歴史

映画『南極物語』の価値は、史実を完全に再現したことではなく、南極観測に関わった人間と犬たちの関係を広く伝えた点にある。

一方で、映画だけを見てタロとジロの生存理由や15頭すべての運命を理解したつもりになると、重要な事実を見落としてしまう。

特に、後年に判明したリキの存在は、映画とは別の角度から実話を考えるきっかけになる。

史実を詳しく知りたい場合は、国立極地研究所の公開資料や北村泰一氏が監修した『その犬の名を誰も知らない』を併せて読むと、映画との違いがより明確になる。

【タロとジロに関するよくある質問(FAQ)】

Q1:タロとジロが発見されたのは何年何月何日ですか?

A1:1959年1月14日です。第3次南極地域観測隊が昭和基地周辺で2頭の生存を確認しました。この日は「タロとジロの日」「愛と希望と勇気の日」とも呼ばれています。

Q2:タロとジロは南極で何を食べて生き延びたのですか?

A2:詳しい食料は確定していません。基地に残されていた犬用の餌、身欠きニシンには手をつけていなかったことが国立極地研究所の資料に記されています。野外で食料を得ていた可能性や、リキが食料のある場所へ導いたという説がありますが、約1年間の食生活を完全に解明できる記録はありません。

Q3:タロとジロは現在どこで見られますか?

A3:タロの剥製は北海道大学植物園の博物館本館、ジロの剥製は国立科学博物館の日本館2階北翼で紹介されています。また、国立極地研究所の南極・北極科学館の敷地内には、南極に残された15頭の樺太犬を記念するブロンズ像があります。2026年現在、いずれも南極観測の歴史を伝える貴重な資料です。

まとめ:【プロの結論】タロとジロの実話は15頭すべての記憶とともに語るべき

タロとジロの物語は、1958年2月24日の第2次南極観測隊による越冬断念から始まり、1959年1月14日の第3次南極観測隊による生存確認へとつながる。

15頭の樺太犬のうち、7頭は鎖につながれたまま死亡し、6頭は行方不明となり、タロとジロの2頭が生存していることを確認された。さらに1968年には、行方不明犬の1頭と考えられる遺体が発見され、2020年の検証ではリキと特定する説が示された。

生存理由については、犬たちの行動や食料の確保、リキの存在など、複数の要素が考えられる。ただし、約1年間の行動を完全に再現できる証拠はなく、リキが2頭を守ったという説明も後年の資料検証に基づく推論として理解する必要がある。

【プロの結論】タロとジロの実話を正しく理解するためには、次の3つの視点が欠かせない。

第一に、1959年1月14日の生存確認と、約1年間の生存過程は別の問題であること。発見された事実は明確だが、食料や行動の詳細はすべて解明されていない。

第二に、タロとジロだけでなく、残された15頭全体の歴史を見ること。7頭の死亡、6頭の行方不明、そして後年のリキの再検証まで含めて初めて、この出来事の全体像が見えてくる。

第三に、映画の感動と歴史的事実を混同しないこと。『南極物語』は実話を題材にした優れた映画だが、登場人物や犬たちの行動には演出が加えられている。

2026年現在、タロとジロの剥製や15頭のブロンズ像は、南極観測の歴史を伝える資料として受け継がれている。

この物語を「奇跡の2頭」という言葉だけで終わらせてはいけない。南極に残された15頭の樺太犬、それぞれの運命、そして犬たちとともに観測活動に挑んだ人々の記憶まで伝えていくことに、この実話を語り継ぐ本当の意味がある。

主な検証資料

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御厨 美冬

スポーツ担当として7年以上の取材経験。sports領域の公式発表・配信元の告知を一次情報として確認し、確認できない情報は記事に含めない方針です。

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